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- 福澤諭吉/大隈重信の人生年表(早慶大創始者)
東京の2大難関私立大学として有名で比較される事も多い慶応義塾大・早稲田大の創始者、
福沢諭吉と大隈重信の人生比較年表。
早慶の歴史を、2人の偉大な創始者から辿ってみたいかたは是非読んでみてください。
[注記]
- 年上の福澤諭吉を先に紹介
- 諭吉の名字については公式的機関では「福澤」表記のため、こちらを採用
参考文献
福澤諭吉協会 公式WEBサイト
http://fukuzawa-kyokai.org/web/
慶應義塾公式サイト:沿革
https://www.keio.ac.jp/ja/about/history/
早稲田大学公式サイト
https://www.waseda.jp/top/about/work/history
https://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-okuma/
総理官邸公式サイト「歴代内閣」
https://www.kantei.go.jp/jp/rekidainaikaku/index.html
福澤諭吉/大隈重信の基本プロフィール
福澤諭吉 | 大隈重信 | |
出身地/生誕地 | 大阪 (大阪の中津藩邸生まれで ルーツは大分の中津藩) |
佐賀 |
生年 | 1835年 (天保6年) |
1838年 (天保9年) |
没年 | 1901年 (明治34年) |
1922年 (大正11年) 長生き |
肩書き |
思想家 教育者 作家 政治家(幕末期) *明治時代以降は 政治に関わらず |
政治家 教育者 |
早慶との関連 | 慶應義塾創始者 (起源は1858年) *若干23歳で創設 |
早稲田の前身である 東京専門学校創設者 (起源は1882年) *40代前半の頃 |
人生の特徴 |
■若い頃から教育分野で活躍 ■作家/思想家/教育者 としての側面が強い |
■総理経験者という事もあり 政治家というイメージが強い ■意識的に自身が創った 学校と関わらないように していたた教育者としての イメージは弱い |
[2人の関係/交流]
- 早稲田大学公式サイトによると二人は生前とっても親しく、家を行き来して家族ぐるみの付き合いをしていたそうです。
福澤諭吉/大隈重信の人生比較年表
年 & 社会情勢 |
福澤諭吉 | 大隈重信 |
1835年 | 大阪で誕生 |
|
1836年 |
父の死により 母・兄弟と共に 大分の中津へ *身分制度などの 理不尽さに苦しみながら 少年時代を過ごす |
|
1838年 |
佐賀藩の武士の子として 現在の佐賀市にて誕生 |
|
1844年 |
弘道館に入学 |
|
1853年 [大きな出来事] 蘭語圏でなく 英語圏の アメリカから 黒船来航 |
||
1854年 |
19歳。 オランダ語を学ぶため 九州東側の大分から 西側の長崎へ渡る (中津藩からの脱出に成功) |
|
1855年 |
長崎から大阪へ (本当の目的地は江戸) 今度は大阪の私塾で 蘭学を学ぶようになり、 「塾」という教育組織の 仕組みを知る |
弘道館で 喧嘩騒ぎを起こして退学に。 |
1856年 |
「蘭学寮」に入る | |
1858年 幕府とアメリカの間で 日米修好通商条約 締結される |
念願の江戸へと渡る。 現地で私塾をひらき 蘭学を教え始める (若干23歳) 慶應義塾の起源 しかし外国人が多い 横浜に行ってみると オランダ語が通じず 英語の重要性を痛感 |
|
1860年 |
船でアメリカに渡り 現地を視察。 帰国後は幕府に 仕えるようになる |
|
1861年 |
6年前に入った蘭学寮と 古巣の弘道館が合併し、 新組織の教授に |
|
1862年 |
今度は船で欧州に渡り 現地の進んだ文化を 視察してから帰国 |
|
1863年 |
英語の重要性が高まる中 自身の私塾を蘭学塾から 英学塾へと転換させる |
|
1865年 |
英語の必要性が増す中、 長崎で佐賀藩が開いた英学塾で 働きだす。 そして英語を習得した大隈は 貿易面でも 外国人との商談で活躍 *長崎時代には 坂本龍馬やグラバーと出会った |
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1866年 |
ヨーロッパでの経験を経て 現地の事を紹介する 「西洋事情」を発表し出す (1970年完結) |
|
1867年 大政奉還(10月) |
||
1868年 王政復古の大号令 (明治時代の始まり) |
自身の私塾を 「慶應義塾」と名付ける |
|
1870年 | 参議に就任 *英語堪能な人物として 貴重な存在であった |
|
1872年 |
「学問のすすめ」 を発表し始める (1876年完結) ベストセラーに |
|
1873年 | 大蔵省事務総裁に就任 |
|
1881年 | 参議を辞任 | |
1882年 (明治15年) 早稲田のはじまり |
早稲田大学の前身、 東京専門学校を創設。 娘婿の英麿が初代校長就任 政治家としてはこの年に 立憲改進党を結成して党首に |
|
1888年 | 2月、第一次伊藤内閣で 外務大臣に起用される。 伊藤内閣は直後の4月末解散したが その後発足した黒田内閣でも 引き続き外務大臣を務める事に |
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1889年 | 暴漢からの襲撃が原因で 右脚切断を余儀なくされる |
|
1892年頃 |
東京専門学校が 早稲田学校と呼ばれ出す *大隈の別邸は 南豊島郡早稲田村に存在した |
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1898年 (明治31年) 大隈が総理に (第1次) |
6月、 第一次大隈内閣発足。 (板垣退助は内務大臣に就任) しかし11月で132日で解散 *1度目は短命に終わる |
|
1901年 |
諭吉、死去 | |
1902年 |
専門学校から大学へと 組織変更と共に 大隈がひらいた学校名が 「早稲田大学」となる |
|
1914年 (大正3年) 6月に 第一次大戦勃発 |
4月に第2次大隈内閣発足。 76歳で再び総理に。 そして首相・大隈の意思により 日本も戦争に参戦。 |
|
1916年 (大正5年) |
戦争最中のこの年の10月、 第2次大隈内閣解散 *2回目の総理時代は 908日間も続いた |
|
1922年 | 1月に83歳で死去。 死後、国葬が開催された |
|
死後 1884年 |
1万円札の肖像画になる (その後、2024年まで 40年間流通) |
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