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- 藤原賢子(大弐三位)の年表/家系図
村式式部の娘で、百人一首においては「大弐三位(読み方=だいにのさんみ)」という詠み人名で知られる、
藤原賢子(読み方=ふじわらのかたこ)の生涯を年表形式で紹介。
そして、わかりやすい家系図。
藤原賢子(大弐三位)の基本プロフィール
父母 |
藤原宣孝/紫式部 |
読み方 |
藤原賢子=ふじわらのかたこ 大弐三位=だいにのさんみ |
生年 | 999年頃 |
没年 | 1082年頃 |
「大弐三位」という 呼称の由来とは? |
再婚相手である 高階成章の生前の地位/役職 "正三位/大宰大弐" に由来 |
以前の主な職/肩書き |
■藤原彰子の女房(教育係) ■親仁親王(のちの後冷泉天皇)の乳母 ■歌人 [地位] 従三位 |
藤原賢子(大弐三位)の年表
この人物については不詳な事も多く、何らかの公式的資料から
新たな事実が判明した際は情報を更新する場合があります。
年 | 出来事 | 関連人物出来事 社会情勢 |
998年頃 | 父母が結婚 |
|
999年頃 | 新婚の 藤原宣孝/紫式部夫妻の 娘として誕生 |
|
1001年 |
父の宣孝が死去。 それから数カ月経過後、 母の式部は悲しみを 紛らわすためにも 「源氏の物語」を書き始める |
|
1005年 |
母の紫式部が 藤原道長にスカウトされ 宮廷入りして 藤原彰子(道長娘)の教育係に。 それに伴い、 幼い賢子も母に帯同。 *その後、自身も 彰子に仕えだす事に |
|
1008年 |
母が宮廷内で 「紫式部日記」を執筆 |
紫式部が仕える彰子に 待望の第一子誕生 (のちの後一条天皇) |
1009年 |
彰子に第二子誕生 (のちの後朱雀天皇) |
|
1011年 |
藤原彰子の夫である 一条天皇が死去。 新天皇は三条天皇に |
|
1013年 |
この頃に母が宮仕えをやめたとされる。 その後、1010年代半ばから 後半あたりの時期に母死去。 *つまり10代の頃に母を亡くす |
|
1016年 |
三条天皇出家。 一条天皇/彰子の皇子が 後一条天皇として即位 |
|
1010年代後半 初婚 |
藤原道兼の息子、 藤原兼隆と結婚 |
|
1025年 皇子の の乳母に |
賢子、この年に誕生した 親仁親王(のちの後冷泉天皇) の乳母として働く *母に近い存在の為 のちの和歌集を通じて 後冷泉天皇とは強い 信頼関係で結ばれていた 事が判明している |
後朱雀天皇 (一条天皇/彰子の子) の家庭に第一皇子誕生。 のちの後冷泉天皇 |
1036年 |
この頃(正確な年不明)、 高階成章と再婚 |
後一条天皇の弟である 敦良親王が 後朱雀天皇として即位 (20年ぶりの新天皇) |
1038年 |
高階成章との間に息子、 高階為家が誕生 |
|
1045年 乳母を務めた 親仁親王が 新天皇に (地位向上) |
かつて乳母を務めた 親仁親王が新天皇に (後冷泉天皇へと改名) 賢子は「従三位」という地位をたまわる。 *即位により、新天皇が 強く信頼する賢子の地位、 さらにはその夫である 高階成章の地位も大きく向上 |
後朱雀天皇死去。 それを受け彼の息子、 一条天皇の孫である 親仁親王が後冷泉天皇 として即位 |
1054年 | 夫の高階成章、 「大宰大弐」という役職に任じられ、 福岡の大宰府に赴任。 *夫婦離れ離れに |
|
晩年 |
主に歌人として過ごす | |
1082年頃 | 80年以上長生きしたのち この頃に死去したとされる (没年不詳) |
|
死後 1086年 |
のちに百人一首に採用される歌も含め 「後拾遺和歌集」に 自身の和歌が9首収録される 詠み人名「大弐三位」 |
後拾遺和歌集完成 |
死後 1205年 |
「新古今和歌集」に、 自身の和歌が 5首以上収録される |
新古今和歌集完成 |
死後 1235年 |
小倉百人一首に その中に御拾遺和歌集に収録された 生前の自身の歌が収録される [収録された歌] 有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする |
「小倉百人一首」完成 |
藤原賢子(大弐三位)の主な祖先・子孫
藤原宣孝 | 賢子の父。 式部のほかにも複数の妻がいたとされる 賢子がまだ幼かった1001年死去 |
紫式部 |
賢子の母。 970年代前半頃の生まれ。 1001年に夫を亡くしてから小説を書き始め 1005年からは宮仕えを開始。 著書「源氏物語」が一条天皇をはじめ 宮廷の人々に愛される。 |
藤原道兼 |
あくまでフィクションである NHK「光る君へ」では紫式部の母を 刺殺した人物として描かれている男性。 藤原兼家の息子で、道長の兄。 賢子の初婚相手・藤原兼隆の父。 |
藤原賢子 歌人名 大弐三位 |
999年頃、 当時新婚の藤原宣孝/紫式部の娘として誕生。 1005年に母が藤原彰子の教育係として 宮仕えを始めるとそれに帯同。 10代の頃に最初の結婚を経験。 1025年からは生まれたばかりの 親仁親王の乳母として活躍。 1030年代半ば、高階成章と再婚。 1045年には乳母を務めた親仁親王が新天皇に。 母同様、歌人としても活躍し、 作品は百人一首にも収録 |
初婚相手 藤原兼隆 |
藤原道兼の息子。 母親は不明。 985年生まれ。 1010年代に藤原賢子と結婚(その後離別)。 1053年死去。 |
再婚相手 高階成章 |
990年頃の生まれ。 1030年代半ばに藤原賢子と結婚。 妻(藤原賢子)が乳母を務めたご冷泉天皇の即位後は 地位が大きく向上し、政治家として大きく出世。 |
高階為家 | 藤原賢子と高階成章との間に誕生した子。 1038年生まれ。 紫式部の孫にあたる。 生前は政治家として活躍。 |
藤原賢子(大弐三位)の家系図
天皇/貴族系の家系図メニュー
複雑な家系図/人物相関図を簡単にわかりやすく紹介。
歴史系の作品を読む/観る前の予備知識としてお役立てください。
■古代人物の家系図
聖徳太子/推古天皇
天智天皇(中大兄皇子)
藤原(中臣)鎌足 藤原氏の起源
光明皇后(光明子)
■光る君へ関連人物の家系図
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藤原道隆/皇后定子(清少納言派閥)
藤原道長/中宮彰子(紫式部派閥)
藤原道兼 玉置玲央
紫式部/藤原為時(吉高/岸谷)
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和泉式部 泉里香
藤原道綱母(蜻蛉日記作者)
村上/円融/一条天皇
冷泉/花山/三条天皇
陰陽師・安倍晴明 ユースケ
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藤原実資(ロバート秋山)
源雅信(倫子の父/益岡徹)
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源重信(鈴木隆仁)
■光る君へ/四納言
藤原斉信/為光(斉信役=はんにゃ金田)
藤原伊尹/行成(行成役=渡辺大知)
藤原実頼/公任(公任役=町田啓太)
源高明/源俊賢(俊賢役=源俊賢)
■光る君へ関連の年表
(時系列で細かい関係性がわかる)
紫式部/藤原道長の人生比較年表
紫式部/清少納言の人生比較比較
定子/彰子の人生比較年表
源倫子/源明子の人生年表(道長正妻/妾)
藤原三兄弟(道隆/道兼/道長)人生年表
四納言の人生比較年表
■登場人物の和歌一覧/現代語訳
紫式部による和歌一覧
清少納言による和歌一覧
藤原道長による和歌一覧
定子の和歌(清少納言教え子)
彰子の和歌(紫式部の教え子)
一条天皇の和歌一覧
藤原賢子(大弐三位/紫式部の娘)
和泉式部
■その他平安時代の家系図
藤原冬嗣(道長/紫式部の共通祖先)
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在原業平(伊勢物語主人公モデル)
紀貫之/紀友則
後鳥羽天皇/上皇
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九条道家(鎌倉4代&5代目将軍父)
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南北朝時代の北朝天皇家系図
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徳川宗家(徳川家広)/16-19代目
公爵・徳川慶喜家(徳川分家)
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孝明天皇
明治天皇(15人の子供一覧)
大正天皇(麻生太郎も義理の子孫)
昭和天皇(兄弟/7人の子供一覧)
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奥州藤原氏
五摂家(摂関家)
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蘇我氏/本家の家系図
清和源氏(源経基が祖)
宇多源氏
足利氏その1(起源から尊氏まで)
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大江氏(大枝氏)
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